肺がんの父をもっていた管理人です。がん発覚から死にいたるまでを書きました(2008年2月1日死亡)。また脳梗塞の母のことも少し書いていましたが、2008年9月2日、母に大きな変化がありました。そして、2009年6月25日亡くなりました。簡単ですが、その間のことも書きました。
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朝、妹からメールが来た。昨夜、姪と甥が来たときはわかったそうだ。今朝も呼びかけると反応を示すそうだ。少し持ち直したのか?少し安心して、ゆっくり病院へ向かった。叔母も来ていた。残念ながら持ち直したわけではなかった。誰でも死の直前になると一時的に、急に目をキョロキョロさせたり、体を動かしたりするものだそうだ。叔母は、きっと今日の夜中だと言った。トイレへ行こうと部屋を出たら、医師に呼び止められた。おそらく今日中にお別れになると言われた。やはりそうか。家族はいっしょにいて下さいと言われた。

従妹が来た。おじさんは頑固者だから、1月末と言われていると、意地でも日にちが変わってから亡くなるよ、と言った。

妹のだんなの両親が来た。(これが最後の見舞い客となった。)

夕方5時。まだ変化はない。同じ息遣いだ。医師が来て診察。朝の状態では、夕方5時まではもたないと思ったと言った。それでもまだ生きているので、いつなのかはわからない。夜中になったときには、当直の医師になると言われた。

少し経って妹が来た。今日は妹に私の家へ行ってもらって、私が病院に泊まることにした。

夜9時。今のうちに眠っておこうと思って、ソファベッドの背もたれを倒してベッドにして寝転んだ。眠気が襲ってきた。目覚めて時刻を見たら11時半だった。眠りながらも、父のハアッ、ハアッという息遣いがずっと聞こえていた。看護師さんたちが来たのもわかった。熟睡はできなかった。(あたりまえだ。)


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いつもは水曜日は午前中病院へ行くのだが、今日は母を近所の内科へ連れて行かなくてはいけなかったので、午後病院へ行った。虫の知らせだったのか、いいタイミングで行った。エレベーターを降りて病室へ向かうと、看護師さんたちが出入りしている部屋があった。父の部屋だ!急いで入っていくと「先ほど、ご自宅へ電話しました。」と言う。様態が変わって、もう呼びかけにもまったく反応しなくなった。昏睡状態だ。「ご家族は側にいてあげてください。」「妹もすぐ呼んだ方がいいですか?」「そうしてください。」いよいよ来るべきときが来たようだ。妹はまだ仕事中だ。メールを打った。

父は酸素吸入をして、ハアハアと口を開けて大きく息をしている。少し息が荒い。父にはもう酸素吸入をしていることさえわからないだろう。仰向けで寝たまま動かない。声をかけてみたが、反応はない。手は暖かい。脈は打っている。弱々しい脈だ。でも、まだ生きている!

お風呂へ入れている途中でおかしくなったそうだ。それでお風呂を中断したそうだ。最後にきれいにしてもらえて、父も気持ちがよかっただろう。ベッドのマットをエアーマットに変えたそうだ。そのほうが楽なのかな?「大切なときをすごすために」という案内をもらって説明を受けた。死の直前にどう患者はどのような状態になって、家族はどう向かい合ったらいいのかというようなことが書いてある。それによると、最後まで聴覚はあるそうだ。今のような昏睡状態でも、声をかけられると反応を示さなくてもわかっているそうだ。できるだけ、周りで自然な会話をするのがいいそうだ。また、手を握ったりしてあげるのもいいそうだ。

呼吸が次第に乱れてきて、そして、一時的に止まり、少したってまた呼吸するようになるそうだ。でも、その一時的に止まったときにそのままになってしまう人もいるそうだ。また、その状態を繰り返しながら、数日間生きる人もいるそうだ。

最初はどうなるかと思ったが、まだしばらくこのままかもしれない。


私は母のことがあるので、一旦家へ帰った。妹が今晩は泊まる。急なことがあったら、電話もらって駆けつける。

●このブログを読んでくださっている、父の知人の皆様へ。●
父はまもなく息を引き取るかもしれません。その場合には、これ以後しばらくブログの更新ができないと思います。皆様へは、オフラインで通夜・葬儀の連絡がいくと思います。葬儀が終わり、少し落ち着いてから、父の最期の様子などの記事は書くことになると思います。通夜・葬儀へいらっしゃらない方々、またお越しいただいてもお話のできなかった方々は、その記事をご覧ください。



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昨日の妹の電話から、心配しながら病院へ向かった。眠っていた。穏やかな顔をしていた。苦しくはないようだ。声をかけても起きなかった。

看護師さんから、看護計画を渡された。変更したので再度作成したそうだ。以前は、「排痰困難」と「日常生活活動困難」だったが、今度は「日常生活困難」「見当識障害」「高体温」となっていた。そういえば、以前の病院では「治療計画書」だった。緩和ケア病棟では、積極的な治療はもう行わないので「治療計画書」はないのだ。代わって「看護計画」になるのだ。

看護師さんが尿を取りに来た。尿を取っても起きない。結局私がいた2時間はずっと眠っていた。

昨夜起き上がろうとはしたそうだ。でもそれ以上の力はもうないそうだ。ましてや以前のようにベッドを降りるような元気もうない。でもまだ切羽詰った事態ではなさそうで、安堵した。昨日は、あと1~2日かと思ったが、もう少しもちそうだ。

父があまりよく眠っていたので、デイルームへ行ったら、他の患者の家族らしき人もいた。声をかけたらやはりそうだった。その人の母親が患者で、父と同じ肺癌(種類は腺癌)で、脳に転移しているそうだ。65歳。まだ若い。心残りだろう。その人とその人の父親とで交代で病院に泊まっているそうだ。私も泊まれたら、父の意識錯綜状態はかなり改善されると思う(実際、家にいる9日間は、夜中に目覚めても、だいじょうぶだよと言うとそれだけで安心してまた眠っていった。)が、うちは要介護状態の母がいるため、泊まれない。うちの父が気の毒になった。しかし皆それぞれの事情があるからしかたがない。

叔母が、もうパジャマよりも寝巻きの方がいいというので、以前に叔母からもらった寝巻きを持って行った。叔母も別にもう1枚持ってきてくれていた。看護師さんに聞いたら、寝ているときは寝巻きのほうが下の世話もやりやすいが、車椅子に座らせるときはパジャマの方がいいので、両方あった方がいいと言った。明日家にある寝巻きをもっと持っていこう。



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昨日は妹も私も病院へは行かなかった。今日妹と姪が行ったら、父がかなり弱っていたそうだ。動くこともあまりなく、血圧は70しかない。腎臓が機能しなくなりつつあるようで、尿の量が少なくなっているそうだ。また、吐くのは痰ばかりではなく、胃に入れた食べ物(液体の栄養)も吐いてしまうときもあるようだ。胃の力も弱ってきて、消化できないのだろうか?<飲み込むことはできないのに、吐くのはできるのは不思議だが。>ベッドから降りてしまうからということで、ベッドではなく床に畳を敷いて、その上にマットを敷いていたのだが、もうその必要はなくなったので、ベッドに戻したそうだ。もう何日ももたないだろう。




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今週も無事(?)週末まできた。ひょっとして今週末は、生きて迎えられないのではないか?とも思っていたが、よかった。

週末とあって、今日も見舞い客が何人か来てくれたようだ。まず、朝叔母が行ったら、気の毒なくらいに部屋中グチャグチャだったそうだ。あまりシーツを痰で汚すので、タオルケットをシーツに敷き、さらに60cm×90cmの長方形のオムツを何枚かその上に敷いてテープで留めてあるのだが、それを引きちぎっていたそうだ。そして、尿がもれてパジャマはグショグショだったそうだ。もうすぐお風呂だし、パジャマの替えがあと1組なので、そのままにされていたようだった。叔母から、タオルケットとパジャマを持ってくるように看護師さんから言われたと家に電話があったそうだ。パジャマはもともと妹が今日3組持っていく予定だった。

タオルケット2枚も持って、妹が午後行ったら、父の父方の従兄弟家族が来ていて、父といっしょにデイルームにいたそうだ。もちろん父はいつものとおり車椅子で。従兄弟の娘と娘婿、孫たち(双子)もいて、賑やかだったそうだ。昔、我が家の向かいに住んでいた人たちだ。私と妹もよく行き来した。その従兄弟と父とは、同じ年齢で、学校もいっしょ、会社もいっしょだったので、ずいぶん長いお付き合いだ。

昼前には、父の母方の従兄弟がはるばる奈良から来てくれていた。たまたまその時は、入浴が終わって、父は疲れて眠っていたところだったそうだ。忙しい中、時間を作って、せっかく遠くから来てくださったのに、寝顔だけ見て帰ってもらって申し訳ないことをした。父には、その従兄弟が今日来てくれることは言ってあった。名前を言って「わかる?」と言ったら、うなずいていた。なので、目を覚ましていれば、多少話はできた(かどうか怪しいが)と思うが、残念だった。

妹は、父の様子は先週と変わっていないと言っていた。ただ、言葉がほとんどわからなくなったと言っていた。父も言いたいことが伝わらず、辛いだろう。


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午後病院へ。部屋へ入ろうとしたら、看護師さんが、少しお休みになられていました、と言った。部屋はきれいになっていた。寝ていたが、目は覚ましていた。まだ眠そうだった。声をかけると、こちらを見て何か言おうとしたが、声が出なかった。かすれても声が出るときもあれば、ほとんど出ないときもある。今日は出なかった。耳を口に近づけても、何を言おうとしたのかわからなかった。そのうち目を閉じた。頬がさらにこけた気がする。手足が白くて冷たかった。「今日はすごく寒いよ。病院は暖かいからいいね。」というとうなずいた。母が調子悪いことを言ったが、反応がなかった。テレビを付けた。ほとんど見ようとしないが、時には自分の興味のあるものだと見るときもあるので、私がいるときは、テレビを付けるようにしている。「4時から水戸黄門だよ。よく家で見ていたね。」と言うとうなずいた。でも、水戸黄門が始まっても見ようとしなかった。私が行った頃は、咳も痰もなかったが、しばらくすると出始めた。一旦出始めると、少しの間止まらない。苦しそうなので、早く止まるといいと思うがしかたがない。真黄色の粘ばりけの強い痰だった。こんな痰が詰まったら窒息するなと思った。今のところ自力で出せているのでいいが。今日は2時間ほどいたが、ほとんど寝た姿勢のままだった。眠ってはいなかったと思うが。だんだん寝ていることが多くなっていくようだ。


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病院へ行ったら、今日もナースステーションにいた。父の車椅子の周りは新聞紙だらけだった。痰を自分でティッシュで取らずに床に吐くようになったそうだ。痰がさらに多くなって来たこともあるだろうが、自分でティッシュを取って、自分の口へ持っていくという動作をするのが大変になってきたのだろう。顔をゆがめて苦しそうな表情をしていた。私の顔を見ても無言だった。部屋へ行くそぶりを見せたので、部屋へ行った。掛布団などがグチャグチャだった。看護師さん2人が急いで直してくれた。それを待ちきれないように、父はマットに倒れこんだ。パジャマのズボンが汚れていたので替えてくれた。今日はけっこう長い時間おきていたそうで、疲れたようだ。咳と痰のあと、まもなく眠っていった。私は今日は30分くらいしか居れなかったので、眠っている様子を見て病院をあとにした。


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今日は朝病院へ。ナースステーションに車椅子でいた。夕べは夜9時頃から朝5時頃までよく寝たそうだ。私の顔を見るなり「水」と言った。相変わらず飲食物を欲しがっている。本当にかわいそうだが、どうしようもない。少し経ったら、医師が来た。診察の後、医師の「何かありますか?」の問いに対して、訴えるように、「水」「こういうふうに」と言って、両手で水をすくって飲むしぐさをした。そればかりは医師でもどうにもできない。何かで気を紛らすことでもできればいいが、今はテレビを見ている体力も気力もない。看護師さんが、胃ろうに入れる食事と薬を持ってきた。十分な量ではない。量が多いと痰が多くなるので、控えてある。したがって満腹感がない。それでも胃に入れてもらうと少しは飲食物に対する欲求が満たされるようだ。ちょっと落ち着いた。でも、少し経つとまたのどの渇きを訴えた。スプレーを口にかけた。それしか渇きを癒す方法はない。何度も欲しがるので、何度もシュッシュッとやったら、やはりむせた。そしてゲバッと多量の痰が出た。いつもこうなる。「水分をとるとこうなるでしょ?これで、もし水を飲んだらもっとひどいことになるよ。下手したら、激しい咳が血痰を誘発するかもしれない。今血痰が多量に出たら、もうおしまいだよ。」と言うと無言になった。父は疲れたように横になって、眠っていった。痰を吐くのも体力を消耗するのだ。別の看護師さんが、血圧や熱を測りに来た。熱は今日は微熱程度だった。血圧は88(最高が)。最近のいつもの血圧だ。あとでお風呂に入れてくれるそうだ。

咳と痰とで苦しみ、飲食物を欲しがる毎日だ。末期がんの患者は、みなそれぞれに苦しんでいる。

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土・日・月の3日間父を見なかった。その間にますます弱ったのかもしれない。今日は言葉がほとんど話せなかった。何か話しているつもりなのだろうが、声になっていなかった。(午前中に2回父から電話があったが、そのときも何も話さなった。)また、咳き込んで痰を出したとき、いやな胸の音がした。「ぜいぜい」というか「ゴウゴウ」というか、肺に空洞でも空いているような音だった。

飲食物を欲しがった。そのことを訴えたかったようだ。でもあげられない。かわいそうだがしかたがない。飲食物がのどへ入ったとたんに激しい咳とともに戻される。かえって苦しむのだ。


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日曜日とあって、そして、私が「今月いっぱいもたないと医師に言われた」とブログに書いたせいで、見舞いに来てくださった人が多かった。ありがたいことだ。我が家からも、母、妹夫婦、叔父夫婦の5人が行った。母も行けた。よかった。

2年前に同じ病室に入院していたHさんも来てくれた。Hさんは、以前の病院のときも何度か来て下さった。Hさんは、父より30歳以上若いが、父と気が合って退院後も連絡を取り合っている。マロンちゃんというトイプードル(アミーもトイプードル)のお父さんだ。手術で肺癌をすべて取り除くことができて、今のところ再発はしていない。このまま再発せずにずっといってほしい。転院のとき来てくれたGさんも、お2人とも、父の分まで生きてほしい。

父の様子は、昨日と変わらなかったそうだ。これで本当に今月末までもたないのだろうか?とみな思ったようだ。

父が定年まで勤めた会社の人が、昔の写真を焼き増しして持ってきてくれたそうだ。その写真を見て、父はなつかしがっていたようだ。



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今日、私は仕事で病院へ行けなかったが、アミーが父と面会した。甥が、アミーを頭だけ出してバッグに入れて非常口から入ったら、「かわいい!」と看護師さんたちに言われたそうだ。父も喜んだようだ。しばらく父の病室に、アミーと妹と甥2人との計5人(4人+1匹)でいて、看護師さんたちも何人か来たそうだが、アミーは吠えることはなかったそうだ。アミーは、吠えてはいけないということを理解したようだ。とてもおりこうさんだ。看護師さんに抱っこもされたらしい。

父は、妹が行ったときには、尿がもれてパジャマがグショグショだったそうだ。すぐに看護師さんを呼んで着替えさせてもらったそうだ。パンツ型のオムツをして、尿パッドも当てているのだが、それでもあふれてしまったのか。やはり自然排尿が望ましいと思うので、出ていないときだけ導尿するのだが、導尿のタイミングが難しい。私も家で1度失敗した。けっこう出ていたので、いいと思って寝る前に導尿しなかったら、夜中にあふれてしまった。そのときは、パンツ型のオムツではなかったので、体が横向きのときにオムツは汚さずに出てしまっていた。それにしても、E病院もレンタルのパジャマを導入してほしい。尿やら痰やらで汚れたパジャマを洗うのは骨が折れる。

今日は父は熱は微熱程度はあったものの、それほど調子悪くなさそうだったそうだ。

午前中に見舞い客が3人来て、父は車椅子で、4人でデイルームで話をしていたそうだが、果たして話ができたのだろうか?


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今日は午後2時過ぎに病院へ。また眠っていた。痰が口から垂れ流しになっていた。口元にティッシュがあててあったので、それでふき取った。口の中にはまだ痰がある。できるだけふき取り、またティッシュをあてておいた。体に触ったら熱い。熱があるようだ。体がピクピク震えている。寒い?と聞いたらうなずいた。悪寒がするのだ。部屋の温度を上げて、上着をふとんの上からかぶせた。一瞬、ナースコールしようと思ったが、おそらく状況を把握しているだろうと思い、やめた。案の定少し経ったら看護師さんが来た。熱が39.4℃あるので、座薬を入れるという。夜中も38℃代の熱が出て、昨日の昼間2時くらいも同様の熱が出たそうだ。毎食後、解熱剤を投与しているのにもかかわらずこれだけの熱。腫瘍熱がだんだん抑えきれなくなってきているようだ。

今度の日曜日に、犬と母を連れて来たいと言ったら、そうですね、会わせたい人がいたら今のうちに、と言われた。犬は前もって何時になるか電話をして、非常口を開けておいてもらう必要がある。母は、なんとか乗用車に乗せて、病院で車椅子を借りればいい。母が来られるかどうかは母の体調次第だ。

座薬を入れてもらってしばらく経ったら、震えは収まり、熱も下がったようだ。看護師さんが来て熱を測った。38.1℃。それでは下がり方が足りないらしい。アイスノンで冷やして様子を見て、もう一度座薬を入れるかもしれないそうだ。

目を覚ました。起き上がろうとするので手伝って起こした。「選挙」と言う。「選挙?選挙行くの?」と言うと、うなずく。「今、選挙ないよ。」と言うと、考えていたが、何も言わずにそのまま横になった。今度は「小豆」と言う。「小豆?小豆食べたいの?」うなずく。食べ物は食べられない、と言うと「みんな」と言う。「みんなが小豆食べているの?」うなずく。また起き上がろうとしたので、起こした。でも食べられないと言うと、「パン」と言う。・・・・・最近は、文章ではなく単語を言うだけのことが多くなっている。

そこへ医師が来た。診察した。「おかげんはいかがですか?」父は何も言わない。「えらいですか?」「はい。」かろうじて答えた。私が「選挙に行くそうです。」と言うと、医師は笑いながら、「先走っていますね。まだ衆議院は解散していませんよ。」と言った。なんか笑えた。小豆とパンのことも話すと「いろいろなことが浮かぶんですね。」と言った。「車椅子に座りますか?」医師が聞くと、父はうなずいた。医師が抱きかかえて車椅子に乗せてくれた。

外が見たいと言うので、戸(病室には窓ではなく戸があって、ほんの小さいベランダが付いている)を開けたら、そちらを見て「外へ行く」と言って車椅子を動かそうとした。外は隣の病棟が見えるだけだし、ソファーベッドがあって行けない。父には何か見えるのだろうか?外へは出られないというと、不満そうだったが、あきらめたようだった。


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今日も昨日と同じ朝9時に病院へ行った。昨日のように部屋は乱雑ではなかった。夜よく眠れたそうだ。明け方に目覚め、しばらく起きていて、また眠ったそうだ。私が行ったときは眠っていた。昨日同様、私がいたほとんどの時間眠っていた。私も眠くなってソファーベッドで眠った。もう帰らねば、という時間になって目を覚ました。ティッシュケースが何かに見えるらしく、指差してしきりに何か言っていた。残念ながら何を言っているのかさっぱりわからなかった。車椅子に座るかと聞いたら、座ると言うのでナースコールして看護師さんを呼んだ。もう帰らねばならないギリギリの時間だったので、あとお願いしますと言って帰った。しかたがない。

夕方妹が行った。そのときもよく寝ていたそうだ。昼間はけっこう起きていて、車椅子でナースステーションにいたそうだ。でも、話ができなかったそうだ。何か言っているが何を言っているのかわからない状態だったようだ。この状況、つまり意識の混迷は、15日からおきている。15日は直接会ってはいないが、何度か電話がかかってきた。そのとき、何かかすかな声が聞こえるような気がするが、よくわからなかった。14日は、飛行機だの北京だのおかしなことを言ってはいたが、言っていることはわかった。認知症のような症状だ。でも今はそれすらない。おかしなことを言っているときは、まだそれなりに脳が働いているのだ。今の状態は脳が相当弱っていることを示していて、こうなると、もう死は近いそうだ。

でも、別にまだ死ななくていい。医師の予想など当たらなくていい。せっかく緩和ケア病棟へ入れたのだから、もう少しゆっくりしよう。現在、多くの末期がんの患者が、よりよい終末期の医療・看護を受けたくて、緩和ケア病棟への入院を希望している。しかし多くは、入れないままに亡くなっている。この状況を考えると、父が緩和ケア病棟へ入れたのは本当に幸運だった。だから、もっとここの生活を味わおう。ここは何ケ月いたってかまやしない。こんなに長くいた人はいなかったって言われるくらいに長くいよう。急いで死ぬことなんかない。ゆっくり、ゆっくりしよう・・・・・


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今日は朝9時頃病院へ着いた。父の部屋は畳が敷いてあって、その上にマットがあって、そこで父は寝ていた。あちこちにティッシュがばら撒いてある。シーツやふとんカバーが痰で汚れている。ゴミ箱のビニール袋にも痰がベチョッと着いている。洗面台にも痰が吐いてあって、歯磨き用のカップがころがっている。夜中にかなりあばれたことが見て取れた。廊下へ出たら医師がいた。「夕べもたいへんご迷惑をおかけしたようですね。すいません。」と謝っておいた。認知症のようなの(認知症の検査をしたわけではないので)が、ますますひどくなっているそうだ。やむをえない場合には体の抑制をする、という書類にサインした。それから、医師は、かなり弱っているので、今月中はもたないと思うと言った。11日に入院してから今日までで、胸のぜいぜいという音がひどくなっていること、血圧が下がってきていること(今日は最高血圧が80!)、意識の混迷が激しさを増していることなどがその理由だそうだ。大勢の患者の最期を知っているので、大体のことがわかるのだろう。いよいよのようだ。しかたがない。

今日は父は寝たままでシャワーを浴びせてもらった。転院してからは初めてのシャワーなので、気持ちがよかったことだろう。

1時間半ほど病院にいたが、父はほとんど寝ていて、起きたらシャワーで、あまり話さなかった。明日も同じ時間に行く。

夕方、葬儀屋へ行って話を聞いてきた。いざというときはあわてるので、前もって話を聞いておいたほうがいいと思ったので。また、どこへ電話すればいいのかなども知っておきたかった。


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朝10時、年末年始に父が使っていたベッドを業者が引き取りに来た。少し汚したことを詫びたが、別にかまわないと言ってくれた。ベッドをどけたら、アミーのおもちゃ(アミーが耳を噛み千切ったサルのぬいぐるみ)が出てきた。アミーは、おっ!こんなところにあったか!と言わんばかりに喜んで、それからしばらく遊んでいた。

今日も昼ごろ父から電話があった。昨日のように「俺だ」だけ言って後は何も言わない。「今日は行けない、明日午前中に行く。」と言ったら「そうか」と言った。「娘さん、出た?よかったね。」と看護師さんの声が聞こえた。そうそう、朝5時前に2回電話が入っていたんだった。眠っていて気がつかなかったが。今日はその後は電話なかった。病院からも電話はないから、問題なく過ぎたのだろう。


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成人の日、午後病院へ。休日の病院は静かだ。

病室へ入ったら、ベッドの位置が変わっていた。左側が壁につけてあって、右側にはピタリとソファーベッド2つともくっつけてあった。その様子から夜中にベッドから降りてしまったことが伺える。目が覚めたとき、誰かがいて、だいじょうぶだと言うと安心してまた寝ていくが、誰もいないと不安になって動き回るのだ。やはりここでも同じで、看護師さんに迷惑をかけている。

叔母(父の実の妹)がまた来てくれていた。今日は従妹(叔母の娘)といっしょだった。従妹の職業は看護師。ナースステーションで爪切りを借りて、父の爪を切ってくれていた。実は私も爪が伸びているのが気になって今日爪切りを持ってきたところだった。従妹にやってもらって助かった。父は車椅子にいて、4人でデイルームで話した。最初父は静かだったが、しばらく経つと、咳と痰が出始めて止まらなくなった。静かにしていて、ボケたことを話している(今日はこれから飛行機に乗って、北京へ向かうと言っていた)と、まもなく死を迎える重病人には見えない。単なるボケ老人だ。しかし咳と痰が始まると、やはり末期肺癌患者だと思う。

部屋へ戻って少し経ったら、医師が来てくれた。咳と痰が多いので、それを減らすように薬を投与したり、水分の摂取の調整をしてくれているそうだ。水分については、通常ならやはり、痰が出るときは多めに摂取するが、肺癌が原因のときは、多く水分を取ると肺に水が溜まったりして、かえって苦しくなることもあるので、逆に摂取を抑えるそうだ。ただ、あまり抑えると痰が固まってしまうので、ほどほどにしないといけなくて、そのさじ加減が難しいようだ。様子を見ながら、とにかく1番苦しくないようにします、と言ってくれた。そうだ、それが「緩和ケア」だ。

咳と痰が収まったら、疲れたのか父は眠った。明日は来れない、明後日来ると言ったら肯いた。

帰るとき、他の病棟の廊下で、羽織袴姿を見た。今日初めて見た新成人だった。母親らしい人といっしょだった。父親か祖父母でも入院していて、晴れ姿を見せに来たのだろう。うちの姪も、時間があったら病院へ行くと言っていたが、どうしたのだろうか?元旦に見せているからいいが。

私が帰ってから、父から数回、携帯や家へ電話がかかってきた。特に何か話すわけではない。「俺だ」とだけ言って後は、聞こえない。話していないのか、話していて聞こえて来ないだけなのか、わからない。なんとなく小さな物音は聞こえるが。しかたがないので、どうかした?元気?看護師さんはいるの?など適当なことを言っては少し経って電話を切った。おそらくこちらの声が聞きたいだけなのだと思う。


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今日は従姉妹(昨日来た父の妹の子)夫婦が父の見舞いに行ってくれた。やはり病院の近くに住んでいる。明日はその妹が来てくれると言う。入院早々、毎日人に来てもらって幸せだ。

痰が多いから水分の摂取を控えるそうだ。胃ろうからは栄養のみにするそうだ。今まで聞いていたことと違う。痰が多いときは、逆に水分を多く取った方がいいと聞いていた。水分不足になると、痰が粘っこくなって、出にくくなり、つまりやすくなると聞いていた。ネットで調べたら、通常はそうだが、病気によっては逆に水分をとらないようにすることもある、とあった。確かに父の病気は通常ではない。それなりの理由があるのだろう。

昨日の夕方同様、父の体調はあまりよくないようだ。

夜7時頃、父からまた電話がかかってきた。「犯罪だ」と一言だけ言った。近くで看護師さんの声もした。その後は何も言わないので、電話を切った。その後11時頃に再度電話があった。何か言っているのような気がするが、聞き取れない。「明日、昼から行く。」と言ったら「わかった。」と言って父から電話を切った。私がいつ来るのかを聞きたかったようだ。


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朝、仕事へ向かう電車内で父から電話があった。今日は来るのかと言うので、今日は行けない、妹が夕方行くと言ったら、すぐに妹に電話したようだ。何時に来るかと。やはり寂しいようだ。

叔母(父の実の妹)が、病院の近くに住んでいて、さっそく今日行ってくれた。看護師さんに名前を言っておいたので、すぐに案内してくれたようだった。夜電話したら、思ったより元気だったので安心したと言った。近いから時々覗いてくれるそうだ。叔母の夫も2年前に同じ病院で亡くなっている。よくその叔母の名前も言っているので、父も会いたがっているようだ。子供の頃のことでも、父の頭に浮かんでいるのかもしれない。彼女も癌患者だ(だった?)が、大腸癌で3年前に手術で取り除き、現在は経過観察中だ。

妹が行った時は、ずっと咳をしていて苦しそうだったそうだ。夕方になると疲れも出て調子が悪いのかもしれない。病院にいるときに、妹から電話をもらったので、看護師さんに言って咳止めを処方してもらったほうがいいかもしれないと言っておいた。熱も少し出たようだった。父は腫瘍熱が絶えずあるので、ずっと解熱剤も投与されている。それでも熱が出てしまう時もある。今日は、テレビで好きな釣りの番組があって、けっこう見ていたそうだ。前の病院では最後の方はほとんどテレビを見なかった。それだけ元気になってきたのか、個室でイヤホンも無しで見れるので気楽なのか、あるいは無料だからか、なんにしても、いいことだ。

昨日書き忘れたが、父の病室には写真などを自由に貼ってもいいボードがある。昨日、さっそくアミーの写真を2枚貼っておいた。また、アミーを面会に連れて行ってもいいそうだ!ただし、他の病棟ではペットは禁止なので、普通に玄関から入ることはできない。前日までに申し出て、外の非常階段から、できるだけゲージに入れて、そっと持ち込むそうだ。父の病室内のみで、廊下などは禁止。よかった!父はもうアミーには会えないかと思っていた。そんな話を私が看護師さんとしていたら、父が、「アミーちゃん、かわいいよ。」と言った。そして、看護師さんが「吠えないですかね?」と聞いたとき、父は「吠えません。」と即答した。笑えた。連れてきて欲しいのだ。まったく吠えないわけではない。誰にでも吠え掛かるわけではないが、自分が気に入らない人が来ると吠える。また、びっくりすると吠えるし、人の気を引きたいときとか、遊んでほしいとき、物が欲しいときなどはやはり吠える。連れてきたとき、あまり吠えないといいが。

緩和ケア病棟(厚生労働省から「緩和ケア病棟」として承認を受けた施設の場合)は、医療費が定額制になっている。1日に37,800円×健康保険の自己負担率だ。うちは今は3割負担なので、1日に11,340円になる。ひと月で約34万円。かなり高額だ。患者1人に対するスタッフ数が普通の病棟よりかなり多い。それだけ手厚い医療、看護を受けられる。がんの終末期は、かなりの苦痛を伴うので、少しでもよく世話をしてくれる緩和ケア病棟の方がいいと思う。


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とうとう緩和ケア病棟へ移った。

2年前、父と同室に入院していたGさんが、見送りに来てくれた。今日は10時半から皮膚科の外来だそうで、早目に来てくれたのだ。Gさんは、父より1才年上の80才だ。父より1年早く肺癌が発覚して、父と同じステージⅢAだった。やはり再発し、抗癌剤が効かなくなって一時は危なかった。でも、腺癌で喫煙歴がないことから、イレッサの投与が行われた。それが劇的に効いて、今は癌もずいぶん小さくなり、皮膚のただれなどの副作用がかなり出ていて辛そうだが、とてもお元気だ。年齢が近く、山の趣味で共通点もあることから仲良くなり、時々連絡しあって、お互いの健康状態を確かめていた。父は、Gさんがわかった。よかった。せっかく来てくださったのに、わからないでは申し訳ない。「いいね、元気で。」と父は小さな声で言った。Gさんは辛かっただろう。看護師さんも見送ってくれた。父は泣いていた。もう父がこの病院へ来ることはないだろう。

高速に乗り、交通渋滞もなくスムーズに40分ほどでE病院へ到着した。E病院も混雑していた。朝の診察の真っ最中だ。緩和ケア病棟へ行くと、その混雑がうそのように静かだった。病室は、普通の部屋のようだ。酸素など、普通の病室のベッドの上に並んでいる機器一式は覆いがしてある。荷物を入れるところは引き出しになっていてタンスのようだ。ソファーベッドが2つある。テレビは無料(部屋代に込み)だ。トイレがカーテンでしきられているだけという点は病室だ。

医師が父に初めて会った。前回の外来のときは、私たち姉妹だけだった。医師が父にいくつか質問をした。おもしろかった。

医師「ここへは何できましたか?」
父「市の車です。」
医師「市の車?公用車ですか?」
父「はい。」
医師「VIP待遇ですね。以前は市に関係するお仕事をなさっていたのですか?」
父「はい。」
(実際の仕事はまったく違う。)

医師「ここへ来る前は、どこの病院にいましたか?」
父(泣き出して)「あちこち、たらいまわしにされて。」
医師「たらいまわしですか?」
父「はい。特に熱田神宮がひどかった。ひどい扱いを受けました。」(涙をポロポロ出す。)
医師「そうですか。それはお辛かったですね。」
父「はい。」(さらに泣く。)
(昨日は病室のテレビを指差して、熱田神宮の鳥居だと言った。今日もE病院へ向かう途中タクシーの中で、熱田神宮に車を止めたままにしていないか?と聞いた。なぜか父の頭の中に熱田神宮があるようだ。今年は初詣に行っていないせいか?)

緩和ケア担当の医師は、父と同じような患者ばかりと接しているので、さすがに応対がうまい。医師は3人。1人は専属でベテラン。他の2人は若い。看護師は、ホームページには18名になっていたが、実際は知らない。しかし、わずか18床(18部屋)の割には大勢いる。それだけ手厚い看護が受けられるのはありがたい。

医師と看護師とミーティングをした。このまま特に急なことがなければ、3月4月まで生きられるだろうが、急なことがいつ起こるのかはわからないので、その場合には例えば1~2週間後に亡くなるということもありうると言われた。急なこととは、大量に血痰が出たり、呼吸が困難になったりすることだ。今父は、毎日止血剤を投与して出血を押さえている。癌がだんだん進行してくると、それでも抑えきれずに大量に出血することも十分ありうるそうだ。その場合には、もう打つ手がないそうだ。また、呼吸器の癌なので、急に呼吸ができなくなる可能性もあるそうだ。その場合も、酸素吸入をしてもなんともならない場合があるそうだ。また、亡くなる時が予測できるときは、できるだけ家族に集まってもらって見送るが、急なことで間に合わないときは、我々で見送らせていただくとも言われた。だんだん死が近づいているのを感じた。緩和ケア病棟へ入ったのだから、死がすぐそばにあるのはあたりまえだが、やはり親の死はいやだという思いがある。

看護師から言われたもの(ボディーシャンプーなど)を病院の近くの大手薬局チェーン店へ買いに行った。便利な店があってよかった。病院内の売店はあまり商品がない。

夕方まで待って、看護計画を受け取り、ようやく帰った。1日がかりだった。あの病院から出るときは、父は生きていない、そんなことも思ったら、なんだか重苦しい気分になった。でも、普通の病院にいるよりは、ゆったり、手厚いケアを受けることができる。緩和ケア病棟の空きを待ちながら亡くなっていく人たちも多い中、無事に入院できてラッキーだった。現在のところでは、癌患者としての最善の死の迎え方ができる。


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病院へ行く途中で、私の携帯に父から電話が入っていた。少し後で気がついたが、こちらからかけても、電話に出られるかどうか怪しいので、やめた。病院へ着き、父の顔を見たら、待ってました、という表情。ナースステーションの看護師さんたちが「よかったね、娘さん来て。」そして私の方を見て「お待ちかねでしたよ。」父が「早く部屋へ行こう」と言う。すぐに車椅子をひいて病室へ。すると「あれ?せっかく俺が用意しといたのに、どっかいっちゃった。」と言った。何のことかと思ったら「食事を用意した」と言う。私やその他病院へ来る人のためにだそうだ。「まんだ、魚焼かないかん。」とあせっていた。毎日、いろいろなことを頭の中でしているのだ。

退院の清算をした。普通は退院日に清算するが、明日出発が早いので前日になった。

主治医が来てくれた。「明日からゆっくりできる病院へ移るから、ゆっくりしてください。」とおっしゃると、父は「今後ともよろしくお願いします。」と言った。これでもう先生と会えないということがわかっていないようだ。最後だというのにちぐはぐになってしまった。でも、最近の父らしい受け答えだった。私も明日は先生に会えないかもしれないと思ったので、「長い間お世話になりました。」と言った。それ以上は泣きそうになって言えなかった。2年以上も本当にお世話になった。


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ちょうど病院へ行こうとしていたときに、E病院から電話があった。11日に入院することになった。キャンセル待ちを入れてから約3週間。思ったより早かった。いよいよ最終段階になってしまうのだ。今の病院とお別れだ。とてもよくしていただいているだけに名残惜しい。

今日の父は、最初寝ていて、少し経って起きた。やはり起きた直後はいつも通り、妙な事を言っていたが、すぐに正常になった。なので、別の病院へ、緩和ケア病棟へ行くことを初めて話した。主治医や師長さんとも相談して、父にとってそれが一番いいことだと思う、と言った。父は、反対はしなかった。「緩和ケア」がわかっているのかどうか怪しいが、なんとなく自分の体のことはわかっていると思う。


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今日は、最初病院へ行くのは、5時に仕事が終わってからにしようと思っていたが、昨日のことがあるので、午前中に行った。ベッドに横になっていた。顔を出すと目を覚ました。「おっかしいな、ここは」また始まった。何がおかしいのかと尋ねたら、じっと考え込んで「わからん」と言った。そのうち「便がしたい」と言ったので、看護師さんを呼んでトイレへ連れて行ってもらった。父がトイレへ行っている間に、棚を見たら、オムツと尿漏れパッドがあと少ししかないので、売店へ買いに行った。売店から戻ってきたら、父はいつもの通り、車椅子でナースステーションにいた。いっしょに病室へ戻って、昨日電話してきたけど、よかったかと聞いたら、返事をしない。そこで、昨日2回私に電話したことを覚えているかと聞いたら、覚えていなかった。そして、家へ帰ると言う。家にいても家へ帰ると言っていたので、自分がどこにいるのかがわからなくなるのだ。認知症の特徴の一つだ。

昨日も今日も頭はおかしかったが、体調は悪くなさそうだった。咳も痰も家にいたときほどひどくはない。よかった。やはり病院の方が健康管理はきちんと、やってもらえる。


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今日は、昨日とは違って、1日中騒がしかったようだ。

今朝6:45父から電話があった。「今、鳥鈴にいるけど、金が無くて払えんで、すぐきてくれ。」どうやら、目覚めてすぐのようだった。すぐには行けない、今日は昼ごろ妹が行く、と言うと、「すぐ!」と言う。今は鳥鈴じゃなくて病院にいるのだから落ち着いて、などと言っているうちに、看護師さんの声が聞こえてきた。それで安心したようで、電話が切れた。

昼過ぎに妹が行ったときは、自分が軍隊に入れられたと言っていたそうだ。また、アミーの子供は生きているけど、アミーは死んだと言って、泣いていたそうだ。

夜、7時半、病院の看護師さんから父の携帯で電話がかかってきた。父が私と話したがっているという。父に代わったら、「殺されそうだで、すぐ来てくれ。」呼吸が苦しそうだった。でもそばに看護師さんがいるのだから、またいつもの目覚めの幻覚か何かだろう。妙なことを言って看護師さんを困らせているに違いない。すぐには行けない。私が行かなくても、看護師さんがよくしてくれるからだいじょうぶでしょう、と言うと、「だいじょうぶじゃない!お前は親を殺す気か!」ときた。ずいぶん興奮しているようだ。どうやらまた自分がどこか危ないところにいると思い込んでいるようだ。昼間の軍隊かもしれない。今は病院にいるから、何も怖いことはないから、安心していい、明日行く、と言ってから、看護師さんに電話を代わって、と言ったら、おとなしく電話を渡したようだ。看護師さんは「興奮してみえてて、家族の方の声を聞くと安心するかもしれないと思って、電話をおかけしました。」と言った。確かにそれまでも、電話で私の声を聞くだけで安心して眠っていったことが何回かあった。看護師さんもたいへんだ。迷惑をかけていることを詫びておいた。

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今日は父は病院で静かにしていたそうだ。昨日入院してすぐのとき、けっこう騒いだので疲れたのだろう。昨日は食べ物をやたらに欲しがった。かわいそうだがしかたがない。

家で、臨時に父の部屋になった応接間へ入ると、寒々としている。ベッドは空だ。なんとも寂しい。昨日までは終日エアコンつけっぱなしで暖かかった。ベッドには父が寝ていた。わずか9日間だったが、それでも生きている人間がいたのだ。ぬくもりがあった。

父が家にいても、正常なときのように、庭いじりをやったり、写真を撮ったり、日曜大工的なことをやったりという、普段の父の日常的なことが何もできなかった。ただ、ベッドにいて、半分以上は寝ていて、起きているときはテレビを見たり、ポツりポツリと話をする(というよりは単語を並べる)だけだった。それも、声がかすれているし、発音も不明瞭で、よく聞き取れない。短期間だったが、せっかく自宅へ帰れたのだから、好きなことをやって残りの人生を過ごせるとよかったが、結局今回も何もできなかった。

父が最後に庭いじりをしたのは、昨年10月20、21日、入院中に外泊許可をもらったときだった。サボテンの鉢の雑草をとったりしていた。その1週間後にも外泊許可をもらって帰宅したが、その時はえらくて何もできなかった。それからは体調は悪くなるばかりで、じっとしているだけだった。

1月1日に書き忘れたが、年賀状が来たと言うと、見るというので束を渡したら、めがねをかけて見ようとしたが、手に持ったままで、1枚ずつめくることができないと言う。それで私が1枚ずつ、○○さんからだよといって、見せながら読んだ。一人一人の名前にうなづいたので、誰かはわかったようだ。


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夜中も痰がひどかった。日を追ってひどくなってきたような気がする。血痰にはなっていないが、それは止血剤をずっと服用しているせいだろう。また、胸から変な音がするようになった。ヒューヒューとゴーゴーとの中間のような妙な音だ。癌が肺の中で広がってきたのかもしれない。まだ呼吸困難ではないが、いつそうなるかはわからない。今日入院でよかった。この状態で7日まででは不安だ。

午前中、ヘルパーさんに最後の体の清拭をやってもらった。アミーがずっとそばにいた。痰をしょっちゅう取らなければならないので私もいっしょにいた。アミーはこれでもう父に会えないとヘルパーさんに話したら、ヘルパーさんが泣いてくれた。ずっと母の入浴介助に来てくれている人だ。今は母のついでに父もやってもらっている。父の元気な姿も知っている。

介護タクシーが来た。私たちがいない間留守番を頼んであった叔母が椅子を持ってきて、母を近くまで連れてきてくれた。母もこれで父の生きている姿を見るのは最後になるかもしれないので、見送った。

病院では看護師さんたちと、挨拶を交わした。ちょっとだけなつかしい。退院したのはわずか9日前だ。E病院へ行くまで、またお世話になる。認知症が出てからはずいぶんご迷惑をかけているので、申し訳ない。


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入院日は、4日または7日の予定で、どちらか決まったら前日に電話が来るはずだった。4日なら、今日電話があるはずだ。父も気にしていた。午前中に電話がなかった。午後電話してみた。明日の午後の入院となった。介護タクシーの時間変更をした(入院は午前中だろうと思って、朝10時半に予約してあった)。ケアマネージャーへも電話して、父の分の訪問介護は、明日で終わりということを言った。そう、明日で終わり。もう父が生きて家に帰ってくることはない。アミーにももう会えない。アミーにそのことを話し、できるだけ父のそばにいるようにと言い聞かせた。アミーは理解したようで、父の枕元にはべっていた。

今日も父は私がちょっと目を離した隙に、自分で動いていた。あるとき、ポータブルトイレに座っていた。認知症の人にとってはポータブルトイレは難しい。ポータブルトイレは、「上のふたを上げる→便座を上げる→中のふたを開ける→便座をおろす→座る」というふうな順序で使用するが、認知症の人にこんな複雑なことはわからない。認知症の人はどのようにするか?「上のふたを上げる→座る」となる。これで排泄したらどうなるか・・・・・皆さん、まわりに認知症でポータブルトイレを使っている人がいたら、くれぐれもご注意を・・・・・ポータブルトイレを作っている人たちには、上のふたを上げたら、いっしょに中のふたも開くようなシステムを開発して欲しい。

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父は夕べはあまり寝なかった。1時間おきくらいに目を覚まして、しかも起き上がった。そしてそのたびに「ここはどこだ?」と言った。普段、体を起すことは、父にとってはたいへんなことだ。それなのにこういうときは、ムクッと起き上がることができる。不思議だ。「家だからだいじょうぶだよ。まだ夜中だから寝ようね。」となだめて寝せた。昼間も長時間は寝なかった。夜と同じで、少し寝て起きると、自分がどこにいるのかわからなくなっていた。

夜中にかなり痰が多かったので、やはり痰の吸入器を借りようと、朝訪問看護ステーションへ電話した。今日看護師さんに来てもらうことになっているので、そのときに持って来てくれることになった。

父は、痰の吸入器がすっかり気に入ったようだった。口の外まで痰を出さなくてもいいので、楽なのだろう。

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2008年にになった瞬間は父の部屋にいた。本当は母もいっしょだとよかったが、母は腰が痛くてほとんど歩くことができなかった。母の部屋から父の部屋へは、2部屋分の長さの廊下を歩かなければならない。それが困難だ。父はよく眠っていた。無事新年を迎えることができてよかった。あと何ケ月生きることができるのかはわからないが、まぎれもなく2008年は父の最後の年になるだろう。

父は朝目覚めると、「気球が3つある。」と言った。そして「天気で来ないかもしれない。」と言った。夢?幻覚?

耳に入ってくるニュースが、自分の世界のことになることもあるようだ。岐阜県の山で7人が遭難したというニュースをテレビでやっていた。それが父の耳に入って、父の世界のことになったようだ。「岐阜県対策本部へ電話して、怪我をしているかどうか確認する。」と言い出した。自分で連絡をとっているが、私にもとるようにと言う。私は「わかった。とってくるね。」と部屋を出た。少し経って部屋へ行った。
父「岐阜はどうだった?」
私「だいじょうぶだよ。」
父「連絡とれたか?」
私「とれた。無事だったよ。」
父「そうか、よかった。」
心から安堵したようだった。仮想世界に付き合うのも骨が折れる。適当な受け答えになるので、うまくかみ合えばいいが、合わないとどこまでもおかしなことになる。

姪(父にとって孫)が今年成人式だ。今日写真の前撮りだったので、振袖姿を父に見せに来た。父は孫の晴れ姿を認識することができた。よかった!見たとたんに「きれいだ。」と言った。続いて「美人だ。」と言って、涙を流した。孫に対しているときの父は正常だった。父の涙を見て、私ももらい泣きをした。姪が部屋を出て行ってからも父は「よかった、よかった」と枕を涙でぬらしていた。待ちに待った孫の晴れ姿だった。これを見るまでは元気でいるという想いがあったに違いない。


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